2012年4月11日水曜日

年金者の戯言帖:


元日からドラマ「99年の愛」を見始めて、三日目でやっと見終わりました。仕事柄アメリカ人とは多少関わった経験があったが、同じ外国人でもインド人の人とはどことなく違う感覚を感じていました。それは直感的なもので肌合いが合わないというか、打ちとけることができない何かです。それを米国へ移住した日系人を対象にして一世紀前から戦後までをドラマ化すると、全面的に浮彫になるのは辛辣な日本人バッシングであったと思います。しかしそのような環境の中で必死に生きていった日本人の姿を描いたこのドラマには感動しました。ただ全編を流れる家族愛に重なる歴史的事実をうまく語ることができないので、以下の文章を引用しました。

「米国・日系人収容所の歴史から現在を問う」からの引用。

65年前。この地には日本人の姿はおろか、日系アメリカ人の影さえ見当たらなかった。厳密に言えば、この地で生活することが許されなかったのだ。最大で2万を数えたといわれるシアトル地域の日系コミュニティーの栄華は、真珠湾攻撃、そして1942年2月19日のフランクリン・ルーズベルト大統領による特別行政指令9066号発令によって終焉を迎える。この法令が引き金となり、カリフォルニア州全土、ワシントン州、オレゴン州の西半分、アリゾナ州南部の日系人・日本人11万人以上は、10ヵ所に設置された強制収容所に入れられた。シアトルやオレゴン州ポートランドなどを中心とした該当者たちは、アイダホ州南部にあるミニドカ収容所に送られた。

黒髪、黒い目をした彼らは数ヵ月後、強制退去命令を受け、土地、財産、ビジネス、ありとあらゆる物を没収された。手元に許されたのは、スーツケース2つのみ。彼らはシアトルの南ピュアラップ市の集合所で数ヵ月間拘留された後、42年8月半ば、列車に揺られ米国奥地の荒野へと運ばれていった。「何が起こるのか、いつ家には帰ることができるのか」。その後3年にわたる砂漠の生活のことなど、知る者はいなかった。

このミニドカでの記憶を今に留めて置こうと、5年前に始まった巡礼の旅には今年、シアトルを中心に約150人が参加した。チャーターしたバスに乗って行くグループのほか、独自に飛行機、車で向かう巡礼者たちが、シアトルから南東へ約1000キロ離れたアイダホ州ミニドカへと向かった。

2007年6月22日、朝6時。早朝のシアトルを出発するバス。高速道路の両側にはヒマラヤ杉が青々と朝靄の中、幹を伸ばす。ノースウエスト特有の朝曇り空、気温は摂氏15度以下。上着がなければまだまだ冷える。片道12時間のバスの旅で、この景色は単なる序章にすぎない。「ミネドカ巡礼の旅」は始まったばかりだ。数時間後、やがて緑は消え、木々は背の低い茂みに姿を変え、むき出しになった岩や黄色い大地が顔を覗かせる。さらに南東へ数時間。雲ひとつない青空からは太陽が照り付ける。気温は摂氏32度に達した。


パックするかを労働

荒野の間から2本の線が目に入る。道路と平行して走る線路に、このバスに乗る旅の参加者のひとりジョー・イケさん(81)が、ミニドカの収容所へブラインドが完全に下ろされた列車で連行された当時の記憶を呼び起こす。「(ブラインドの隙間から)煙がどんどん入ってきました。窓を閉めるには暑すぎたし、咳き込む人も多かった。本当にひどかったものです」

猛暑のなか、真っ直ぐ延びる線路を煙を立てて走る蒸気機関車。それに比べれば、バスの旅は快適だ。オレゴン州を抜け、目的地のアイダホ州へ。やがて荒野は一転、青々とした農地へ変わる。ポテト、コーン、小麦、そして牧草地。この巡礼の旅を企画した団体「フレンズ・オブ・ミニドカ」のジェリー・アライさんによれば、1960年代にこの地に立ち寄ったときはこのような農場はなかったという。

しかし、収容所時代に日系人・日本人が泳ぎ、魚を求め釣り糸を垂れ、3年間を過ごしたという運河は当時と変わることなく、水量も豊富に大地を蛇行していた。バスは小さな橋を渡り停車場へ。目の前には収容所を監視していた守衛舎と来訪者の待合室の跡地が現れた。赤レンガ作りの建物こそ、鉄条網に囲われた一大コミュニティーの入り口。最大で約1万人を収容し、住居用建物、学校、病院、消防署、野球場など、全44区画3万3000エーカーを誇ったミニドカ強制収容所は、第二次世界大戦時、アイダホ州第4の人口を誇った「日本人街」だった。

07年現在、ミニドカ収容所史跡として残るのは消防署跡や倉庫などわずかなバラックだけだ。しかし、ミニドカ収容所史跡の近くにあるツインフォール市には「Idaho Farm & Ranch Museum 」があり、当時のバラック小屋を再現、展示している。巡礼の一行はこの博物館を訪れた。そこには鉄製の簡易ベッドや居間に置かれる旧式のストーブがある。イケさんによれば、部屋のタイプは大、小2種類あり、家族の規模によって割り当てられたという。板張りの部屋同士のプライバシーはないに等しかった。

当時の収容所学校の教室も再現されている。戦後60年を過ぎ、70歳以上になる収容所経験者の多くが、当時は収容所内の学校に通い、仲間たちとボールを投げ、野球を楽しみ、走り回った。クリスマスが近づけば、ヨモギを摘んで飾りを作った。シアトルにある非営利団体「日系ヘリテージ協会」が発行する短編集『Omoide(思い出)』の一部では、こうした収容所での思い出が日系二世、三世によって綴られている。周りはみな知った顔。鉄条網に囲われ外に出ることは許されず、監視塔から銃を突きつけられている現実を忘れれば、友人と毎日顔を会わせ、どのような場所も遊び場に作り上げることができた。


関連物質は、バッチをテストする

しかし、彼らの両親、祖父母の思いは違った。市民権保持も土地保有も許されなかった移民一世たち。政府からはスパイの嫌疑をかけられた。苦労して築き上げてきたものを失った悲しみ、怒り、絶望。頼りとすべきリーダーたちの多くは、収容所とは異なり刑務所へ収監されていた。収容所内の権限は二世に移っていき、世代交代が進んだ。すべてを失った一世たちは徐々に声を失っていった。

シアトルの日系新聞社「北米報知」には、その前身である北米時事社が戦時中に発行する日刊紙、「北米時事」が残っている。情報は新聞かラジオに頼っていた当時、同社は日系一世にとっての拠り所だった。当時の紙面をめくると、強制退去に関した記事が日々掲載されている。非常事態の中でも「落ち着いた対応を」と訴え、シアトル日系社会の混乱を防ぐ努力がうかがえる。抵抗活動などがなかった点からも、このメディアの貢献度は少なくないのではないか。

その一方で、「敵軍」という名で紙面に記す日本軍の進撃も伝え続ける。マレー半島上陸、シンガポール陥落。1942年3月11日には「大東亜共栄圏構想」に関する特集記事を掲載。そして翌日の廃刊をもってシアトルから日本語メディアが消えた。数ヵ月後、日系人たちに強制退去命令が下される。日本語に頼った一世たちはこの間、どのような情報を頼りに、自らの立場を決めていたのだろうか。

日系二世のアイリーン・シガキさん(68)は、一世のつらさを身を持って知る一人。当時の記憶として鮮明に思い出されるものは、一世の父親の姿だ。「英語記事やラジオで米国の戦局有利を聞けば、『これはただのプロパガンダ。嘘の情報だ』と話していました。幼いときに移民し、米国で教育を受け、英語も堪能だったのですが。本当に苦労して、つらい時期だったと思います」

同じく二世のフミコ・ハヤシダさん(96)は当時、シアトル近郊のベインブリッジ島で生活を送っていた。1942年3月31日、ベインブリッジ島のハヤシダさんら日系人227人は退去命令を受け、ピュアラップの集合所へ移送された。その後マンザナー収容所(カリフォルニア州)を経て43年にミニドカへと移された。

ハヤシダさんの住居は最南東部にあたる第44区画だった。夏は気温が摂氏37度を越え、冬は水溜りが凍った。強い風が吹けば砂塵が舞う。ガラガラ蛇やサソリに脅え、生後間もない乳飲み子を抱え、遠出もできなかった。「運河を渡った瞬間に涙が出てきました。ただひどかった。本当にひどかった」。今年の巡礼者で最高齢の彼女には当時を思い返す言葉はこれ以上見つからない。

ミニドカ収容所史跡では現在、2つのプロジェクトが計画されている。アライさんらが中心となり進めている「一世メモリアル」プロジェクトは、第442連隊戦闘団の活躍など、二世世代に焦点が充てられがちな日系史において、約3800人の一世収容者の足跡を残そうと、収容所跡地付近にメモリアル広場建設を計画している。


あなたはそれが言うことを知っていますか?

一方、国立公園局は、当時の第22区画にあたる128エーカーの土地を農場主から借り受け、史跡の拡張を計画する。その暁には史跡内に強制収容所を再現し、メモリアル化を図る。米国連邦下院議会では現在、法案化へ向けた議論が進められている。これらの活動は日系三世が中心。一世の記憶が風化する前にその記録を残したいと痛切に願うものだ。

巡礼を終え、シアトルへ向かう道中でのこと。日系人たちが収容所へ移送され、そして新たな生活へ向け旅立った線路が延びる。農場、街から離れると、緑は消え、見渡す限りの荒野が広がる。60年前と変わらない、収容者たちも目にした光景なのだろうか。

地元の住民に尋ねると、アイダホ州ボイジー郊外のフリーウェイ沿いにはスガという日系人農家が戦後から農場を構えているという。無から開拓し、美しい農地を広げる彼らには、尊敬のまなざしが向けられていた。 そのほかにもオンタリオ、ウィザーといったアイダホ州とオレゴン州の境に点在する町々には、シアトルへたどり着くことなく、この地に根付き、農業を営む日系人家族も多かった。また一部はアメリカ東部、中西部へと新たな生活を求めて行き、シカゴをはじめとした東海岸の日系社会の発展に関わっていく。

シアトルへ戻った人たちについて言えば、生活は楽ではなかった。住宅難から国語学校の教室を生活の場とする家族もいた。それでも得た自由は、何にも変え難いものだったに違いない。鉄条網で外界と隔離されることも、銃を向けられることもない世界。戦後、家族とウィザー郊外へ移ったエド・ヒロオさん(71)はこう話す。「どこにでも行ける、何でも買える。(家族とも)自由な気持ちになれた」 強制収容所体験者だからこそ重みを持つ言葉でもある。

 

そして442連隊戦闘団の凱旋パレードで述べたトルーマン大統領演説、レーガン大統領演説とクリントン大統領演説を以下に引用。

Former President Harry S. Truman
At the Presidential Unit Citation Ceremony For the Japanese American "Nisei" 100th/442nd RCT, July 15, 1946
You are to be congratulated on what you have done for this great country of ours. I think it was my predecessor who said that Americanism is not a matter of race or creed, it is a matter of the heart. You fought for the free nations of the world along with the rest of us. I congratulate you on that, and I can't tell you how very much I appreciate the privilege of being able to show you just how much the United States of America thinks of what you have done.
You are now on your way home. You fought not only the enemy, but you fought prejudice--and you have won. Keep up that fight, and we will continue to win--to make this great Republic stand for just what the Constitution says it stands for: the welfare of all the people all the time.


Former President Ronald Reagan
At the Signing of the Civil Liberties Act of 1988, August 10, 1988
Yes, the Nation was then at war, struggling for its survival and it's not for us today to pass judgment upon those who may have made mistakes while engaged in that great struggle. Yet we must recognize that the internment of Japanese Americans was just that: a mistake. For throughout the war, Japanese Americans in the tens of thousands remained utterly loyal to the United States. Indeed, scores of Japanese Americans volunteered for our Armed Forces, many stepping forward in the internment camps themselves. The 442nd Regimental Combat Team, made up entirely of Japanese Americans, served with immense distinction to defend this nation, their nation. Yet back at home, the soldier's families were being denied the very freedom for which so many of the soldiers themselves were laying down their lives.
Motion picture actress Louise Allbritton, a Texas girl, told how a Texas battalion had been saved by the 442nd. Other show business personalities paid tribute--Robert Young, Will Rogers, Jr. And one young actor said: ''Blood that has soaked into the sands of a beach is all of one color. America stands unique in the world: the only country not founded on race but on a way, an ideal. Not in spite of but because of our polyglot background, we have had all the strength in the world. That is the American way.'' The name of that young actor--I hope I pronounce this right--was Ronald Reagan. And, yes, the ideal of liberty and justice for all--that is still the American way.

Former President William J. Clinton
At the Medal of Honor Ceremony, July 15, 2000
When young Japanese American men volunteered enthusiastically, some Americans were puzzled. But those who volunteered knew why. Their own country had dared to question their patriotism and they would not rest until they had proved their loyalty. As sons set off to war, so many mothers and fathers told them, live if you can; die if you must; but fight always with honor, and never, ever bring shame on your family or your country. Rarely has a nation been so well-served by a people it has so ill-treated. For their numbers and length of service, the Japanese Americans of the 442nd Regimental Combat Team, including the 100th Infantry Battalion, became the most decorated unit in American military history. By the end of the war, America's military leaders in Europe all wanted these men under their command. Their motto was "Go for Broke." They risked it all to win it all・ounded soldiers left their hospital beds against doctor's orders to return to battle・hey fought in Italy・n France and liberated towns that still remember them with memorials. They took 800 casualties・o rescue the lost battalion of Texas...
A group of Army veterans who knew firsthand the heroism of the Japanese American soldiers, attacked prejudice in a letter to the Des Moines Register. It said, "When you have seen these boys blown to bits, going through shellfire that others refused to go through, that is the time to voice your opinion, not before." In Los Angeles, a Japanese American soldier boarded a bus in full uniform, as a passenger hurled a racial slur. The driver heard the remark, stopped the bus, and said, "Lady, apologize to this American soldier or get off my bus." This defense of ideals here at home was inspired by the Japanese Americans in battle.



These are our most popular posts:

イーストウッド エドガーフーバー伝記大百科 ディカプリオ

スミス捜査官は文筆であることがみとめられフーバー長官の伝記を書くことになるが、 フーバー長官の知ってはいけない情報にまで ..... エイミーハモンド(名前がアーミー ハマーに似てますけど)って今後一緒に働いてくれるんだ。 ... ここから物語のギアが 上がる。 ... 記者をからかってたんじゃないかな」としている。 ... フーバーがちびでぶ だから、イメージに合わせようにもさすがのディカプリオもデブは出来てもチビは無理 ということで回りにでかいの .... コーラーはウィスコンシン州の木材工学の専門家で政府 顧問としても活動。 read more

北米生活に関わるちょっとした事の質問スレ17

2008年12月24日 ... read more

年金者の戯言帖:

2012年1月31日 ... 生物電池は、毎年何万の生命を置換させる人工臓器と人工補綴の革命をキックスタート させることができる。 ... コスニア博士と彼のチームは、この固有制限を回避する試みの 技術を開発する世界でますます増加する研究者の一つである。 ..... ジャーナリストの 田原総一朗氏は2012年1月26日、自由報道協会主催の記者会見に出席した。 ...... の ロッテルダムのエラスムス医療センター、そして他方はウィスコンシン大学マディソン校 ―あるシロイタチから別のシロイタチに大気を通じて広がったことを意味する「 ... read more

めとLOG~ミステリー映画の世界: 大時計(48) ハードボイルド作家 ...

2008年3月16日 ... このビルの名物は1階ロビーにある大時計で、それは世界各国の時間が一望できる 仕組みになっており、毎日何千人という見物客を ... それは臨時増刊の特ダネとして、 ある失踪者の手記をとることであり、確かにジョージの専売特許とも言える、得意な分野 の仕事ではあった。 .... 社長は自身のボディガード、ビル・ウォーマック(ハリー・モーガン )に「謎の男」を発見次第、"消す"ように命じていた。 ... 大時計』の原作者、ケネス・フィア リングは1902年にイリノイ州に生まれ、1924年にウィスコンシン大学を卒業。 read more

Related Posts



0 コメント:

コメントを投稿